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「秋月 」 一覧

八重の桜 キャスト 秋月

八重の桜の登場人物の一人である、秋月悌次郎についてキャストや小史などを今回は書いていきたいと思います。

 

 

 

秋月悌次郎は、文政7年7月2日(1824年7月27日)に父である丸山胤道の次男として、会津若松城下に生まれました。

 

丸山家は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は丸山家ではなく別家として秋月姓を称しました。

 

諸生の出ながら、藩校である日新館にて学び秀才として知られ、江戸に遊学し、その後は藩命により西国を遊歴するなど、諸藩の事情に詳しく交際範囲も広い秋月悌次郎は、その当時、特異な会津藩士であったとされています。

 

藩主であった、松平容保の側近として仕え、文久2年(1862年)に松平容保が幕府から京都守護職の任を授かると、秋月悌次郎は公用方に任命され、松平容保に随行し、上洛しました。

 

薩摩藩士である高崎正風らと計画を練り、会津藩と薩摩藩が結び起こした八月十八日の改変を起こし、藩兵を率いて、実質的な指導者として活躍しました。

 

しかし、その後佐幕派の反対を受け左遷され、慶応元年(1865年)に蝦夷地代官となります。

 

 

再び召喚され、薩摩藩との関係の修復を試みますが、失敗に終わりました。

 

戊辰戦争では軍事奉行添役となり各地に出陣しましたが、専ら裏方としての活躍のみで戦場に出ることはなかったとのことです。

 

降伏を決し、会津若松城を脱出した際には、米沢藩へと赴き、官軍(天皇及び朝廷の正規軍)首脳へ降伏を申し出ました。

 

会津藩軍事面にて重役に就いていたこともあり、謹慎を受け、明治元年(1868年)には会津戦争の責任を問われ、終身禁固刑となりますが、明治5年(1872年)に特赦によって赦免されます。

 

その後は各地の学校の教師として生徒の尊敬を集め、教育者として満75歳でその生涯を終えました。

 

秋月悌次郎の墓所は、東京都港区にある青山霊園にあります。

 

 

 

そんな秋月悌次郎を今作、八重の桜で演じているキャストは北村有起哉さんです。

 

北村有起哉さんは、八重の桜以前にもNHK大河ドラマ「義経」に五足役でキャスト出演、同じくNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」にて豊臣秀次役としてキャスト出演されています。

 

 

 

また今回も八重の桜を通じて、キャストである俳優さんや秋月悌次郎という人物を深く知ることが出来ました。

 

まだまだ放送は長く続きます!

今後も八重の桜に関連する知識をどんどん見に着けていこうと思います!!

八重の桜 秋月

八重の桜に出てくる会津藩士の一人秋月悌次郎に注目してみました。

八重の桜を見ていても分かることなのですが、会津藩士の中には特別優秀な人が多く、個性的な面々が揃っていますよね。

 

秋月悌次郎、山本覚馬、新保修理、山川大蔵この4人は特別優秀と言われています。

今回は会津藩士の中でも交渉役として活躍した北山有起哉さん演じるこの秋月悌次郎とはどういう人物なのか紹介しようと思います。

 

まだ八重の桜で描かれていない部分に触れるので見たくない人は気をつけて下さいね。

 

秋月さんは下級武士の出身です。

藩校・日新館に学び、幕府直轄の昌平坂学問所では書生寮の舎長を務め、九州など西国諸藩の各地を巡り歩きます。京都守護職では公用方に任命され、その実力が買われ諸藩との交渉に当たることになります。

 

八月十八日の政変のきっかけを作ったのも秋月さんでさらに、長州勢力を駆逐した薩摩との間に結ばれた薩会同盟の立役者にもなるのですが、これが原因で周りから妬まれ一時は蝦夷代官として蝦夷に左遷されてしまいます。

この蝦夷代官というのは昔でいう重罪人の流刑地の監視や送致などの役目をすることです。

 

戊辰戦争の時には新保修理の後継として軍事奉行添役を務めるなどしていましたが、戦場では主に裏方として活躍していました。

 

降伏の際にも和平の使者を務め、会津の未来を白虎隊たちに託して一線を退きます。

 

八重の桜でも秋月と覚馬がお互いの才能を認め合うような話がありますが、会津にいる人達は本当に優秀な人達が多く、なぜこんな悲劇の歴史を辿ったのか不思議なほどです。

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