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「徳富蘇峰 」 一覧

八重の桜 キャスト 徳富蘇峰

八重の桜の主人公、新島八重に関連する人物、徳富蘇峰についてキャスト情報や人物像をご紹介したいと思います。

 

 

 

まず徳富蘇峰は、文久3年1月25日(1863年3月14日)から昭和32年(1957年)11月2日と、明治、大正、昭和と3つの時代に渡り活躍した、ジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家です。

 

また、政治家としても活動し、戦前や戦時中、また戦後の日本に大きな影響を与えたことでも知られています。

 

 

そして、今作八重の桜の主人公、新島八重と徳富蘇峰の接点についてお話いたします。

 

日本人同士のキリスト教式の結婚式を京都初で挙げた新島襄と新島八重。

 

欧米流のレディファーストの精神が身に付いていた八重の夫である新島襄と、男らしい性格だった八重はお似合いの夫婦であったといわれていますが、夫に手を差し伸べさせ、車にも夫より先に乗る姿を見た周囲は八重を「悪妻」と噂していたそうです。

 

同志社英学校時代にも、戊辰戦争の際、薩摩藩や長州藩が会津藩を攻めたことから前記に当て嵌まる出身の学生に対し冷たい態度で接したり、問題事項を起こした兄嫁を義兄や夫である襄が許容しても、八重は兄嫁を家から追い出すなど西洋の感覚を身に着けながらも、武士の誇りと道徳に固執するあまり、周囲との軋轢を生じたそうです。

 

そして、同志社英学校の学生達の演説会に襄と八重の二人で出席した際、当時の学生であった徳富蘇峰に「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性がいる」と強く非難されたのが、八重と徳富蘇峰の蟠りのきっかけです。

 

この鵺(ぬえ)は八重の名と掛けたものでもありました。

しかしその際、八重は動揺や怒りさえ見せず、全くといって良いほど動じなかったとのことです。

 

それは、夫婦間の仲は非常に良好で、夫の襄がアメリカの友人に宛てた手紙の中に「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」と記していた程だったからです。

 

 

その後、八重と徳富蘇峰が和解したのは、襄の死に際でのことでした。

同志社英学校での夫婦の様子を認めた徳富蘇峰が過去の非礼を詫びたことでこの件について収束を迎えます。

 

 

 

現在、八重の桜の放送にあたり、神奈川県にある「徳富蘇峰記念館」では「新島八重からの6通の手紙展」が開催されています。

 

興味のある方やお近くにお住みの方は、一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

そして、八重の桜における徳富蘇峰のキャストについてですが、キャスト情報はおろか、徳富蘇峰が出演するかどうかも現在の段階では公表されていません。

 

今後、キャスト情報や登場するか否かなどの情報開示が期待されますが、それは八重の桜制作スタッフと神のみぞ知る・・・(笑)

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